19歳女、彼氏いない歴=年齢に終止符、と思ったらすぐに終わりを迎えた件
みなさまご無沙汰しております。
gsnoh38です。
こんなに更新が滞っている当ブログでも一応読んでくださっている方はいらっしゃるようで本当にありがたいかぎりです。
さて、そんな私のブログの中でみなさまの関心が1番高いのが、タイトルの通りこういう記事でして。
以前書いた記事2つを一読の上、読み進めてくださいまし。
上にリンクを貼りました記事の通り、私は非常に面倒臭い性格で、愛されることを望みながらも恋人ができること、及び結婚することにおいて半ば諦めを感じていました。
ですが、
そんな私にも2ヶ月と少し前に彼氏というものができまして、私の面倒なところを話した後に付き合ったものですから受け入れられた幸福等々、幸せな毎日をおくっておりました。
つい、一週間ほど前までは。
2ヶ月で見事に冷めちゃいました。
きっと彼は何1つ悪くないのだと思います。
ここでも私は自分の面倒くささの為に
他者を巻き込み、振り回し
挙げ句の果てに自分勝手に
共有している幸福を壊そうとしているのです。
ここからは、また、いつもの通り
こういう女もいるんだなと思って読んで下さい。
私、すべてを彼に受け入れられた気でいたんです。実際に面倒臭さも少しの異質さも彼は受け入れてくれ、そんな私を好きだと言ってくれました。それが幸せだったのに長く続かなかったのは私に原因があるのだと思います。
普段から、価値観は人と違うものであり、それが良さであると考える私ですので、非常に認めたくはないのですが、冷めてしまった原因は高い確率で"価値観の相違"なのでした。
私はどうやら他者に無関心なところがあるらしく、それは付き合ってからも変わらないようでした。私は彼と付き合う前も後も大した変化はなく、以前面倒臭い性格でした。が、彼はどうやら違ったようで、付き合う前後で大きな差がありました。それは当然なのでしょう。友達に対する態度と彼女に対する態度が同じであるはずがありませんもの。変化がないなら付き合っている意味も、友達じゃダメだった理由もないのですから。
でも、こう考えられませんか?
私は付き合う前、彼が好きでした。
それは
付き合う前の彼が好きだった、
と言い換えてもそこまで語弊がありません。
ですが彼は変わります。
彼女に対しての態度に変化し、そういう付き合い方に変化し、彼も、私たちを取り巻く環境も変化しました。
この時点で既に、好きだった付き合う前の彼ではなくなっているのです。
冷めても仕方なくないですか?ない?そうですか。極論ですかね。
元々私は受け入れられたことに喜びを感じ激しく好意をいだき、周りから見たら性格は正反対で合わないだろうとのことでしたので、付き合い方の理想も合うはずがなく、私は彼と付き合うことにうんざりしてくるんですね。
彼は多くの妥協をしてくれました。私に合わせていると思っていますし実際そうでした。
私たちは週に一回のデートをしていました。
彼は会えるなら毎日会いたいという人でしたから週一は忙しい私への妥当案なのです。
だけど、彼も周りも気づいていないことが。
私だって妥協をしていたということ。
正直なところ、私は会いたいと言われて会うのも、週一で会うのも前向きにはなれず、2週間に1回で十分じゃないか、と思っていたので週一すら頑張っていたのです。
ここで早くも認識が食い違ってきます。
彼は私の為に会うのを我慢して、常に会いたいと思いを募らせてくれているのです。
対して私は、彼の為に週一で会うことにすら精神と時間を削り割き大きな喜びを持つことなく彼と会います。
もうこの時点で熱量の差がはるかに違うのです。同じ会う為に我慢、なのですが(笑)
会っている時間は楽しいし好きだな幸せだなと感じるのですが、こういうことを繰り返すと日々熱量の差は広がっていきます。
彼は割と女々しい性格でそういうことに敏感でしたから、常に熱量の差、つまり相手をどのくらい好きか、というのを比べられ、不満こそ言われませんでしたが、俺ばっかり好きじゃんもっと好きになってよ!風な態度をとられることが増えていきます。
他者に無関心で追いかけられると気持ちが引く私ですから、こういうことは1番辟易するのです。
私は、自分1人で人生を100%全うできる人が好きです。恋人に対し、いなくても楽しいけどいたらもっと楽しいという考え方のできる人が好きです。
ですが、多くの人は恋人ができることで
あなたがいることで自分は人生を100%楽しめるといったような、人生に必要不可欠なものとすることが多いのではないかと感じます。
ここの認識が両者違いますと
それはうまくいかないだろうと思うわけです。
彼はまだ私との関係は円満だと思っているのでどうやって別れを告げるべきか、非常に迷ったのですが、素直に言おうと思います。
だって彼は私のこういうところを付き合う前に受け入れてくれたんですもの。
もし別れを納得してもらえず、私のこの考えだったりを否定されるなら、それは彼のことを好きでなくなる瞬間なのですから。
まあ面倒なことをゴタゴタと並べましたが
要するに私は他者に無関心である故に
他者にも同様、私に無関心であることを望んでしまうという我儘女なのでした。
彼とのおつきあいはとてもいい経験になりましたが、まだ早かったのかもしれません。
自分の面倒な部分が、また新たに再確認できただけでも十分だと思いましょう。
長文になりましたが、読んでくださりありがとうございました。
また記事更新、再開したいと思います。
女の人は何故か皆サバサバしたがるけど
歳をくっただけでは大人にはなれない
亀の甲より年の劫ということわざがあるように
年長者の経験や知識などは尊ぶものという風習がありますよね。
その反面、若い人は老害なんて言葉を平気で多用しちゃう時代だし、
皆が気づいている、身をもって感じていると思うのですが、年齢を重ねただけの人を大人と言うのは少し抵抗がありますよね。
逆に若い人でも、心から尊敬したり憧れたりしちゃう人っていますよね。
その違いは何によって生まれるんだろう。中身のある大人になるにはどうしなきゃいけないんだろう。
って考えた時に、真っ先に思い浮かぶ差異は人生経験なのではないかと思うんですよね。それは単に苦労したかしてないかとかではないんですよね。大変さ、苦労の大きさ、何が辛いかは人によって異なりますから。だから、どれだけ苦労したかではなく、その困難とどう向き合ったのかが人生経験の実り、ひいては充実した齢の重ね方に大きく関係しているのではないかと思うのです。
この間、ふと、思いました。
年を経る毎に物事に対する享受性能の低下が著しいなと。やっぱり、知識として得るのと体感するのとでは合理性というか効率の良さの差異が大きすぎるなと。
だから、若いうちなんですよね。同じ物事を経験し向き合うにも、若い頃の方が得るものが多いのです。向き合い方に深さがあるのは齢を経てからかもしれないですけど、それは過去を振り返ってみた時でも十分だと思うのです。やはり年齢を重ねるごとに多くを学んでいくわけですから、驚くことや新鮮なことは減り、先入観なしで何かと向き合うことというのは困難になってくるわけです。そういう習慣をつけておくことが大事だと思いました。それこそ若いうちだけです。
若いうちにたくさんのことを経験し、失敗し向き合い、楽しみ、笑顔がクセになるようなおばあちゃんになりたい。
世の中の理不尽さとちゃんと戦っていきたい。
向き合いながら受け入れ受け止め
自分の中で勝手に世界を狭めない。
これは私の人生の目標になる。