タチの悪い善良さ
滅べ世界。
なんてね、なんてね。
私が述べたいのはただ一つ。
善良な人間がはびこるくらいなら滅べよ世界。ということ。
私が述べる善良というのは、"本当にいい人"といった評価をつけられる人ではなく、偽善よりもタチが悪い善良をかざす人のこと。
これは多くの場合、本当の親切心(だと本人は思っている)で行われることが多いと思う。世界の大半が善良であるがゆえになかなか気づかれないタチの悪さ。
例え話をしましょう。
身近な人が亡くなりました。なかなか元気になれずずっと落ち込んでいます。友人Aはそんな私を心配して声をかけてくれます。それはそれは毎日、たくさんの言葉をかけてくれました。「いつまでも落ち込んでないで前を向こう」「いつか忘れられるよ」…等。
さて、こんなに的外れな声かけというものはあって良いのだろうか。分かる。大いに分かる。これはありきたりな定型句なのだ。どう言えばいいかわからないからこう言う、それは分かっているつもりだ。だがしかし、問題は、このような言葉を善意のつもりで平然と言ってのける善良さだ。この的外れな言葉は励ましにならないし、相手の立場に立って、という観点から見ると一つも善意に受け取れないのだ。
人は誰もが自分のことを、全く良い奴とも言えないが普通に善良であると思っている。が、故に引き起こす残酷さがある。マナーや礼儀を重んじることが美徳とされるせいで、臨機応変な対応が取れないのだと考える。
人を傷つけようと思って傷つけるのは悪党である。無意識に人を傷つけるのは大抵善良な人である。だからタチが悪い。いっぱしに人を傷つけるが自覚はないのだから。だからといって優しさは考えて行うものではないので、これは解決できない問題なのだろう。
しかし、これくらいなら意識することはできるのではないか。
心配と好奇心の違いを意識すること。
心配してる風に、いつでも話してね
なんて言うことがよくあるけど、人がいるけど
それって果たして本当に心配の心?本当に善意???好奇心が混ざってない???真意を知りたいとかそんな好奇心混ざってることが多いんじゃない?
それは善意ではない。本人が善意のつもりな、1番タチの悪い心配だ。
それを自覚すること、自分の行動に自覚すること。そうしたらこのどうにもならないタチの悪い善良さも少しはマシになるんじゃないか。
好奇心って人を傷つける十分な要素になり得る。それなら心配しない方がマシ。いや、心配してるふりなんてするな。
こんなことばっかり考えてるから、人生イージーモードになんてできないし、人生って不条理に満ちたくそな世界なんだ、滅んでしまえって思っちゃうけど。
とりあえず自分が変わることから。こうやって書くと自分を見直せて反省できるね。世界が滅ぶならいいけど、そうもいかないから仲良くしなきゃいけないんだね
自分のこと善良な人間だとは思わない
けど
善良な人間になりたい
せめて
善良じゃなくてもいいから
タチの悪くない無害な人に迷惑をかけない人間になりたい